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https://doi.org/10.24546/81012668
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81012668 (fulltext)
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2.10 MB
48
メタデータ
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メタデータID
81012668
アクセス権
open access
出版タイプ
Version of Record
タイトル
明治期楽人サバイバル : 旧南都方楽家・東家文書から
その他のタイトル
Gagaku musicians’ survival in the Meiji period: a case study of Higashi family’s activity in Nara
著者
著者ID
A1113
研究者ID
1000010314452
KUID
https://kuid-rm-web.ofc.kobe-u.ac.jp/search/detail?systemId=ad94ed426900321b520e17560c007669
著者名
寺内, 直子
Terauchi, Naoko
テラウチ, ナオコ
所属機関名
国際文化学研究科
収録物名
国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要
巻(号)
55
ページ
39*-76*
出版者
神戸大学大学院国際文化学研究科
刊行日
2021-03
公開日
2021-03-31
抄録
この論文は、旧南都方楽家・東家に伝わった資料から、地方に残った旧楽人が、明治一〇年代から三〇年代にかけて、どのような活動によって雅楽伝承と自らの生計を維持したのか、また、彼らの活動が、地域の雅楽の復興や広がりというより大きな脈絡において、いかなる意味を持つのかを考察するものである。明治維新後、京都、奈良、大阪の楽人の大多数が東京に移住し、東京での新しい宮中儀礼に参画していったことはよく知られている(塚原二〇〇九)。しかし、多くの寺社をかかえる関西では、明治維新後も年中行事で一定数の雅楽の奏楽人員が必要であり、旧地に残った「旧楽人」は、寺院の僧侶、神社の神官ほか、一般の人々にも広く雅楽を教授し、地域の雅楽の維持、あるいは復興のために大きな貢献をした。本稿で使用する資料は、「南都狛姓楽家東友弘家文書」(以下、「東家文書」と略す)の中の、明治期に記された日誌、記録、嘆願書などの資料である。東家は、南都方楽人の上、辻、芝、奥などの家と並ぶ狛氏の一族で、狛氏の本流の上家から一四世紀に分かれ、「東」を名乗るようになった(平出一九五九)。明治維新を迎えた当時、東家の当主は東友秋(一八三一~?)であった。友秋は、履歴書(東家文書252)によれば、雅楽局の設置(明治三=一八七〇年一一月)とともに少伶人に任じられ、東上して「東京府貫属士族」になるが、翌年四月に「依重病辞職」とある。同年一〇月に奈良県に「貫属替」となっている。以後、奈良で雅楽の維持活動を行った。明治四年三月には、京都御苑の中に、雅楽局の京都出張所が作られ(明治一〇年に廃止)、関西の楽人の何人かはそこに所属して、天皇の御陵での奏楽などに勤仕していたが、東友秋はそこには所属していない。本論は、明治四年に雅楽局を退き、旧地の奈良に戻った後の東友秋の活動に焦点を当てる。東家文書は、東家に伝来した楽譜、官位の記録、行事の次第、日誌など雑多な内容を含む史料である。そのうち、年代が確認できる最も古い資料は永正九(一五一二)年の『鳳凰管要略譜』で、最も新しいのは明治三〇年代の楽器売買の記録である。現在この史料はデジタルPDF版を「南都狛姓楽家東友弘家文書」として購入できる。本論では、『日誌』(東家文書207)、『記録』(同208)、『記録』(同209)を中心に、明治一〇年代から三〇年代までの東家の活動を考察する。明治一〇年代は、家内の出来事、雅楽を奉仕した寺社等の行事、弟子の動向、楽器販売などの記録が出てくるのに対し、明治二〇年代以降は、楽器販売の記録が中心になり、儀式の記録が少なくなるという記述内容の偏りがある。しかし、東家の『日誌』『記録』に記録が見えないからといって、明治一〇年代にあった儀式がその後消滅したのかどうかは即断できない。儀式における雅楽の奏楽が取りやめになった可能性や、奏楽はあっても東家の人が参加しなくなった可能性もある。さしあたりここでは、東家の『日誌』『記録』の記述内容には時代によって偏りがある、ということを指摘しておきたい。なお、江戸時代の年中行事と比較する際は、東家文書の中の江戸期の日記や芝家日記集を参照した。
This essay explores how hereditary musicians of gagaku, the court music of Japan, tried to maintain the tradition and make a living on it in their original place in the late 19th century. After the Meiji Restoration (1868), the majority of gagaku musicians in Kansai (Kyoto, Nara, and Osaka) moved to Tokyo to participate in the new court rituals conducted there. However, some musicians stayed in or came back to their original places where they were expected to contribute in the performance of gagaku and its dance repertoire bugaku in the traditional annual events in Shinto shrines and Buddhist temples. They also taught gagaku to local common people including priests of shrines and temples. This essay gives a special focus on a musician Higashi Tomoaki (1830-?) who was born in a hereditary gagaku family in Nara and insisted to stay in his original place after the Restoration. According to the historical documents that were preserved in Higashi family, it has been clarified that the family survived the drastic social change of the Meiji era by making and selling gagaku instruments in addition to performing and teaching gagaku in Nara. The documents also revealed that the believers of Tenrikyô, a new religion emerged in the mid-19th century, were quite big customers of Higashi family in 1890s and 1900s. The fact suggests that gagaku rapidly permeated Tenrikyô rituals in the late 19th century.
キーワード
gagaku
Nara
Higashi Tomoaki
musical instruments
Meiji Restoration
Tenrikyôt
雅楽
奈良
東友秋
楽器
明治維新
天理教
カテゴリ
国際文化学研究科
国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要
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55号(2021-03)
紀要論文
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資源タイプ
departmental bulletin paper
言語
Japanese (日本語)
ISSN
1340-5217
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