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https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100399200
このアイテムのアクセス数:
37
件
(
2025-05-06
23:56 集計
)
加藤清正起請文
メタデータ
ファイル出力
メタデータID
0100399200
資料種別
manuscript
タイトル
加藤清正起請文
作成日
1600
日付(和暦)
慶長五年九月十五日
言語
Japanese (日本語)
数量
[文書](31.3×91.0cm)
形状
包紙あり
請求記号
96
関連情報
URI
https://lib.kobe-u.ac.jp/da/nakagawake/
URI
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/sc/0100399380
注記
276 [包紙]あり。276は関連情報を参照。
カテゴリ
中川家文書
慶長(1596-)
権利情報
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目次・内容記述を表示
抄録・要旨
【慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いに関するもの】慶長五(一六〇〇)年九月一五日、すなわち関ヶ原合戦当日の日付で、肥後熊本城主加藤清正が自ら血判を据えて中川秀成に宛てた起請文。神文(誓約に違反した際罰せられる神仏の名を記す部分)は熊野那智大社発行の通称「那智滝宝印」と呼ばれる牛玉宝印の裏を翻して記される。清正は、まず第一条では、豊臣秀頼が幼少のため、太閤秀吉の遺言にそむき家康へ二心をもつものがあるが、秀成が家康に協力を誓い、その験として人質(「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)によれば甥の寺井小七郎)をよこしてきたので、後日その旨を家康に伝えること、第二条では、秀成が家康に一味を誓った以上は、今後秀成の身に何があっても見放さず、秀成のために出来る限り奔走すること、第三条では何事であれ「公義」のため、秀成のためになることは分け隔てなく申し入れ、秀成に対し裏表無くつきあい、讒言などしないことを誓っている。関ヶ原合戦で爆発する豊臣政権内部の矛盾・政治的葛藤において、石田三成ら奉行たちとの対立から、清正が早くに親家康の姿勢を示したことはよく知られるが、秀成も慶長四年、在大坂の大老・奉行衆が秀吉の遺命に反したかどで家康を糾問する事件のあった際には、義兄弟にあたる池田輝政(その妻が秀成の姉妹)の仲介で家康に無二の忠誠を誓い、また翌五年二月にも家康・秀忠親子に忠誠を誓う起請文を輝政と榊原康政あてに出すなど(「中川氏年譜」)、家康に従う意向を表していた。一方、秀成の所領のある豊後は、大友義統の改易の後一旦全体が豊臣蔵入地化した故もあってか、その後も蔵入地が多く残り、また中川氏以後配置された大名も、毛利高政(隈)・竹中重利(高田)・垣見一直(富来)・早川長政(府内)・熊谷直盛(安岐)・太田一吉(臼杵)・福原直成(荷揚、慶長四年改易)といった、もと蔵入地の代官を勤めた者を含む、いわゆる「吏僚」派の者達が殆どであった。彼らは、三成の妹婿であった福原直成は勿論のこと、他の者達も殆どが立場の近い豊臣奉行派=反家康方(西軍)につき、かかる中、秀成は丹後宮津の細川氏の飛び地である木付城(現、杵築市)を守る同家家老松井康之・有吉立行とともに数少ない家康派(東軍)であった(両者が情報交換を行っていることを示すのが八八・九四・九五号文書)。ところで、この起請文は、同年八月一八日付で秀成が清正に宛てた起請文(九三号文書、写)との対応が予想され、「中川氏年譜」も「加藤様よりの返り誓紙」としているが、これには検討の余地がある。この間、豊後では、九月九日に西軍と結んで旧領回復を目指す大友吉統が、兵を率いて速見郡別府浜脇浦(現、別府市)に上陸(九五号文書参照)、立石村(現、別府市)に布陣して翌一〇日には木付城攻めに着手している。そして秀成に与力として付属されていた吉統旧臣田原紹忍・宗像掃部は、これ以前清正や松井・有吉に彼らと家康への与同を誓っていた(八月二九日付、清正の松井・有吉宛書状、『加藤清正伝』所収)にもかかわらずこれに合流した。あまつさえ彼らは、中川氏の旗指物を偽作して秀成が吉統に同心する旨の流言を流し、豊前中津の黒田如水(東軍)は、これを見て秀成が吉統に一味した旨家康に報じたため、秀成は窮地に陥ったとされる(「中川氏年譜」)。そして一三日、吉統軍は木付城の松井・有吉軍と如水派遣の援軍の連合軍に立石・石垣原(現、別府市)合戦で敗れ、本状当日、九月一五日未明に投降したのである。一方、清正は一四日に松井からの注進状を受けて翌日熊本を出陣、一六日に小国(現、熊本県阿蘇郡)まで進軍したところで如水および松井・有吉からの戦勝を伝える書状を受け取っている。その返報において清正は、右の経緯もあって紹忍・掃部を激しく非難しているが、同時に「修理(秀成)手前の儀、沙汰の限り(言語道断)に存」じ、昨一五日に使者を送ったとし、ところがそのあと夜前に秀成の使者がやって来たので、「追い懸け申すべし」と書状を受け取らなかったが、重臣加藤可重の諫言によって「先ず人質を出だし候えと申し遣わし」た、と述べているのである(如水宛書状、『黒田家文書』二一八号)。一五日夜の秀成の使いとは、与力紹忍・掃部の裏切りと自己の立場の弁解のためのものと考えられるが(秀成は一六日付で松井・有吉に弁明の書状を送っている。「松井家文庫所蔵古文書」四四九号、前記『黒田家文書』二一八号の注による)、それに対する清正の「申し遣わし」を受けて後日人質が差し出され、交換に本状が送られた、と考えるのが自然であろう。以上から、清正が九月一五日に本状を出したとするのは疑わしいといわざるを得ない。自らにふりかかった嫌疑を晴らすべく、秀成はこの後西軍方の太田一吉の拠る臼杵城攻めにとりかかるが、あわせて家康への弁明に備え、清正になるべく日付を早めるよう手心を加えてもらったのかも知れない(「中川氏年譜」によれば、秀成は九月二六日に、西軍小西行長の居城宇土城攻略のため出陣中の清正のもとへ、「関東の御首尾合御頼」のために使者を送った、とある)。(解題作成:神戸大学文学部日本史研究室)
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